昭和41年07月09日  朝の御理解



 御教えに「人を軽う見な、軽う見たらおかげはなし」と。人を軽う見るな、人を軽う見たらおかげはないとはっきり、もう断言的に仰っておられますね。人を軽う見てはならん。同時にまたお道の丁度あの、本部教庁でを評してからある人が、金光教の金光教は学者に弱いと言う様な事を言われておりますよね。確かにそう言や、そう言う所がありますよね。まあいうならば普通の者は軽う見とるけども、学者だけは非常に高く評価すると言う様な所がありますね。
 「何々の何々学士が、金光教をこう評された」と言う様な事には非常に神経を尖らす。ね。これは例えば、無学の百姓でもと、こう教祖御自身が仰っておられますが、無学の百姓でおありになる例えばんなら、人はそれと反対に軽うみておるような感じが致します。人間にいわゆる不同作って、作ってはならん。福沢諭吉ですか「人の上に人を作らず」と言うような言葉があるね。器量が良いからとかお金を持ってなさるからとか、身なりが良いから悪いからで美し、値打ちを作っておる、付け足してはならんのです。
 そういう心掛けではもうおかげはないと仰る。ほんとに私共はここんところをですね、大事にして行かにゃいけません。もうほんとに、赤面することがありますよね。もう身なりが仕方がないようにしちゃあるもんだから、こちらザァッとと言う様な気持ちで接しますと、ほんとに後で後悔する事があります。ところがどうも私共は、なりや形にとらわれますもんね。偉そうにしておられりゃ偉く扱い。でなら反対のことであったら軽う見る。ね。これはあの光明皇后ですかね。のお話の中にございますです。
 大変仏教に帰依された方であった。大変慈悲深い方であった。ですからあの当時仙人風呂と言う、いわばその今でいうならば、薬になると言った様な温泉でしょう。温泉場か何かにです。大きな風呂を立ててその中に病気などで難儀しておる人達を、皆そこに集めて介抱されたと言う話があります。ある時一人もうほんとにまぁ今で言うなららい病でしょうね。いわゆるその手足の腐りかかった様な人がその風呂を訪ねて来た。
 皆がそれを、まぁいうなら排斥した時に、皇后様その人を招じ入れてお風呂で綺麗、お風呂で綺麗に洗ってやったでけではなく、足に出来ておるその腫れ物のような、それを自分の口をもってその、吸い出してやんなさったと言う話が残っております。ところがなんとそれが観音様の化身であったと言う。いわゆる仏徳を受けられたと。ね。私共がお粗末にしてし勝ちな所に、そういう神様の思惑がある事があるんです。ね。もうほんとにそれはもう、おかげ頂かにゃいけませんですね。
 肉眼で見える世界だけでこうと致しますと、いわゆる人を軽う見るような事になって、おかげを受けられません。そこで私は今日思うんですけれども、「人を軽う見な、軽う見たらおかげはなし」と教えておられるがです。神様ご自身もそこんところをご自分の事として仰ってはおられないと言う所を、私共は頂かなきゃならん所じゃなかろうかと。気付かなきゃならん所じゃなかろうかと。
 人間ですら軽う見るなと仰るのに、ましてや神を軽う見たらおかげはなしということが言えると思うですね。いやもうここはおかげの世界ではなくて、徳の世界だと思う。もう神様を疎かにしたり、神様を軽う見るような事ではもう絶対、ここではお徳ということでしょうね。おかげをお徳というふうに頂かなきゃならんですよ。絶対にお徳は受けられないでしょう。私共がまず、人を軽う見なと。
 そういう信心に本気で取り組ませて頂いて、それこそ人が排斥するような、人がいよいよ相手にしないような人の中にでも、ほんとの人間性と言うか。いわば神性と言うか。神様の氏子としての取り扱いというものをです、なさらなければならんと思うんです。どうでしょうか。成程ここだけででもおかげが受けられるな、と思うとられる方ないでしょうか。もう自分下の者って、もうほんと言やもうほんとに軽う人を見下げる。自分の都合の良い。偉そうな人にはもうぺこぺこ。
 私ぺこぺこしちゃいけんと言うのではない。ぺこぺこするなら誰にでもせにゃいかん。もうほんとに鼻持ちならない人と言うのは、そういう人ですよね。上役にはぺこぺこするけれども、下役には非常に冷淡だという人がある。この辺をしっかり頂かなきゃならん。同時に、ただ今私が申しますように、神様を軽う見るようなことではいよいよおかげを受けられん。軽う、神を軽う見るものは、おかげが受けられん。と仰っていないですけれども、人間ですらそうなんですからね。
 私今朝方からお夢を頂いた。あのご造営のところ、大体私はこちらのお広前の方は、今度は御本部のと同じように、縁なしで畳を入れるつもりだった。ね。縁なしでこの畳がへりなして、同時にこの内殿は、勿論ところは板張りでございますから、そこの御結界の間ですね。ここんところの外殿の所。そこが勿論まだこんな金なんとかなんかではない、もっといわゆる縁を取った畳の、そこだけは質の良い畳を入れたいこう思ておった。ところが今朝方から私お夢頂かせて頂くのがですね。
 ここんところ縁のない畳を取るところがあった。「誰がこんな事しただろうか。馬鹿な事してからどうしたことだろうか。こことここと間違えとるとじゃろうが」と言うて私、気もみよるところを頂いた。そして実は今朝の御理解頂いておるのでございます。ね。「人間を軽う見な」と、「人間を軽う見たらおかげはない」と仰るが、それよかもういっちょ、神様を軽う見るような事では、いよいよおかげは受けられんぞ、お徳は受けられんぞと。ましては例えば、ほんとに人は相手にしない。
 もうほんとに世の中お終いと言うような人でもです。そのひとに接する例えば機会があったら、そうしたらほんとに、神の氏子としての取り扱いが出来る様な、心の内容心と言うものが内容がです。出来て来なければダメだと。もしそれが神様自身であったらどうなる。神様その氏子に、おかげをやろうお徳をやろうと思うて、もしその人を使うて試されたとしたらどうする。それだけでもやはり、うまいことおかげを受けられん、ということが分かるでしょう。光明皇后じゃなくてもです。
 確かにお徳を受けて行くという人は、私は人を丁重にすると思うんですよね。今有り難い世の中になりましてからね。華族様とかその士族とかと、いわば人間に位を付けるようなことを、お国自体がしなくなりました。これは大変神様の機感にかなう事であると私思いますですね。皆が平等なんだ。ですから信心さして頂く者は、そこを内容的にです。いわゆる平等としての、神様の氏子としての頂き方というものが、出来なきゃなりません。ね。人が相手にでもせんごたるなら、ほんとに少しは人間心を使うてでも。
 特に私は大事にしてあげれるような心がけが、必要だと私は思う。信心さして頂く者は。ね。この人は学生、学生様だからと、ね、大事にすると。この人は無学だから、軽く見ると。もうそういうことではおかげが受けられん。ましてや、まぁこれが神様をお粗末にするようなことでは、いよいよもってお徳が受けられない。どうもこれは私を始め椛目全体ものがです。どうもここに、縁なしの畳を付けようとしておるようなことなかろうか。ということを私今朝から感じましたんです。
 二、三日前私、神様からお知らせを頂いた事がございましたから、石井喜代司さんの所に、私と家内と、それから楽長の田中さんと、これは長女の豊美を連れましてから参りました。神様どうしてこの事を、教えて下さるだろうかと思ったんですけれど、やはり頂きますもんですから、今日はあの隣の田中さんにも言うといてくれ。お前達も用意しといてくれ。4時過ぎから行くけんでと言うてその、私4時過ぎから行く為に準備をしよりましたら、丁度あの、竹内先生が見えられました。
 そしたら「あの今日は先生あのもう、ちょっと寄らせて頂くのでございますから、今日すぐ帰りますから」ち。だから「熊本の方へ帰られるんですか」ち言うたら「いいえ今日は佐賀の県庁で会議がございます。何時までに行かんなりませんから、もう今日はご無礼いします」もうお礼してこそこそと、その日は帰られました。そんな先生まぁ私佐賀の入り口まで行くとですが同乗さして下さい。それはもうご幸いでした。と言うてからまぁ神様が成程この迎えまで寄越して下さった、という感じが致しますでしょうが。
 いわゆる佐賀に行かれるのですから、喜代司さん所は(?)手前ですもんね。私あちらへ参りましてからですね。もうほんとに胸が熱うなるように有り難いと思いました。誰もおるふうじゃござりませんもん。私入ってから、「もしもし」って言うたら、暗い所から喜代司さんが出て来ました。もう裸でもうこう汚れちからですね、もう今までそのなんかやっとったらしいんです。今それで切がついたんで、「はぁ先生ご無礼します。先生夢じゃなかですか」ち言うた。
 前、(?とった。)それに夢じゃなかですかち言うてからもう、感激しよるとです。それで丁度仕事も済みましてから、今体を洗おうとしよるところでございました。私はその時に、もうこの人は参ってこんでん、これでおかげを頂くと思いましたですね。そして私は、ちょいと上がらして貰おうかと言うて、上がらして頂いてからいよいよそれを思いましたです。ね。
 御神前がもうそら狭い所ですから、もう一杯こう箪笥、長持ちでその一杯ない御神前が、畳4畳か5畳くらい空いとるだけでございますが、神様に生き生きとしたお榊が上げれる。今誰もおりませんもん、かおるさんも入院しとりますしね。それから、お母さんは病院に行っとります。みやこ?さんも入院しとりますでしょう。それで、その誠之助さんの嫁が四人の子供を抱えてからそのやってるんですから、ほんとに片付ける暇がありますまいと思います。
 他の所は成程、ろくそにしてございましたけれども、御神前だけはきちっとしてあったことです。お榊が生き生きとお供えしてあるだけではなくて、霊前様の分がですね、もうきちっとその、お茶とお水がお供えしてございました。私それを暫くそこで待つ間に、皆んなに話しました。喜代司さんはこれだけでおかげ頂くねと私は申しました。そしてその、御八足をこう、御霊様と両方にしてある八足の下に貼ってある。なんか紙に書いて。そしてなんて書いてあるかと。「ここには物を置くべからず」と書いてある。
 よう男なのにお神様お祭りして、そんとこのお神様の下にはなんでん、こうやって重ねとった事がありますもんね。「ここには物を置くべからず」と書いてある。いかに神様を丁重にしておるかということがそれだけでも分かるでしょうが。ね。いかに神様を拝み上げてござる、毎日参りよると言うても、ほんとの神様がゴミだらけ、お榊は枯れてござる。お三方は上向いたつもありゃ、下向いたつもある これでは皆さんおかげを受けられても、お徳は受けられませんよ。ね。
 そこで皆さんが早速帰って、もう御神前のお掃除をなさったり、そのお榊の水を替えられたり、綺麗にされると。もうその事だけが、神を丁重にするということじゃない。それは孟宗さして貰わなければ居られんもんであって、ね、神を大事にするということはどういうことかと言うと、いつも私が申しますように、神様の働きそのものを、お粗末にする事が神をお粗末にする事だ、と私は思うです。そういう意味合いでなるほどあの、甘木の初代あたりがお徳を受けられたはずだと思いますよね。
 神様の下さった御物としての、大事なこの扱い方というものです。木の葉一枚だって、木の枝一本だって神様の御物として、大事にされた事は、そのまんま神様を大事にされた事ですもんね。しかも人の真似の出来んほどの、素晴らしい頂き方でおありになったということですよ。私共の信心に、神様が求め給う神様の働きというものはです、私共が合掌して受けて行くという、そのことを大事にして行くということ。
 それが神様を尊ぶ事であり、ね、神様を大切にする事であるということを、私はまず念頭に置かして貰い、そこの思いがそこの信心が出来れるならばです。形の現れておるところの、例えばお神様。ね。家のお祭りしておるところの、お神様はとてもあだやおろそかにお粗末に、だん出来やしませんです。ね。人を軽う見たらおかげはないと仰るから、ね、神様を軽う見たらおかげはなし。それはお徳ということ。神様を軽う見たらお徳が受けられん。成程もうこれじゃ、自分はもうおかげを受けられる。
 失格者であると言う事を、悟らせて貰うと同時にです。これからは今日からはです、その事自体に取り組まして貰う。人ば大事に取り扱わして貰う。形に現れとる神様を大事に取り扱わして頂こう。神様の思いも大事にさして貰おう。神様の働きそのものを大事にさして頂こう。合掌して受けて行こう。もう嫌だ嫌だと思う様な事があっても、それをいわば観音様の化身であるということを一つ皆さんが思い出させて頂いて。
 これを神様の働きのいわば、深い御神意のある所であると悟らせて頂いたら、その事自体を取分け大事にするような気持ちにならせて貰う所にです、おかげを受けられるのじゃなかろうか。昔あのよく宝探しというのを致しました。札があそこここに隠してある。そして、こげんとこ人が見るまい、と言うごたる所によか札が入っとるでしょうが。ね。こげんとこと言うた所をその見抜いて、そこから私は宝を探さして頂くようなです、宝を頂かして貰う様なおかげを頂かなければならんと思うですね。
   どうぞ。